「医学英語」をめぐる諸問題
―医学書編集者の悩み―
J. Eguchi
17 July 2002
※ ふだんいろいろな方とお話していますと,意外に皆さんが「編集者」という職業の中身についてご存じないようですので,最初に私の仕事の内容をお話しましたが,本題とはあまり関係ありませんので,ここでは割愛します。
一般の方々には意外かもしれませんが,現在の日本人医師の英語力は,世界的にみてもかなり低いレベルにあります。(米国で医師免許を取得するためのUSMLE試験の合格者数・合格率は,アジアで最低レベルです。)その背景となる日本における医学英語教育に関しては,3つの問題点があげられると思います。
しかしながら,医師免許取得後,専門医になるには英語(を通じての知識の習得)が絶対に必要なので,卒業後に付け焼き刃で勉強することになる。そうやって読解力だけはある程度養われるものの,会話力の方は惨憺たる有り様になってしまっているというのが現状です。

前記の医学英語教育の問題点を背景に,医学教官と英語教官の橋渡し役として機能していますが,今後はさらなる展開も求められています。例えば,医学英語教科書の作成や会員層の拡充などが必要だと思います。個人的には,翻訳・通訳者の皆さんも会員になって,批判や提言を行っていただきたいと考えています。
※ 医学英語にも問題がありますが,最近は「英語」ではなく「医学日本語」に起因する問題点も多々あるのではないかという気がしています。まだまだ私見のレベルですが,問題提起という形で話をさせていただきました。
1. JIS規格(ワープロ変換における字体)の問題
第一の問題として,学会によって異なる漢字(字体)を用いている点が挙げられます。さらに第二の問題として,ワープロでは出力できない略字・新字を用いている学会もあります。手書きが中心だった時代ならいざ知らず,ワープロ入力・デジタル印刷の時代にはそぐわないのではないでしょうか。
2. 学会用語集の問題
(1)学会によって,異なる用語を用いているケースがあります。
[例1] 呼吸音の表記
英語 日本医学会 日本呼吸器学会 日本内科学会 crackles 記載なし 断続性ラ音 ばちばち音,水泡音 egophony やぎ声 やぎ音 やぎ声 rhonchus ラ音,水泡音 いびき音 ラ音,連続性ラ音 stridor 喘鳴 喘鳴 喘鳴 wheezes 喘鳴 笛様音 喘鳴 *呼吸音の表現はもともと主観的な要素が大きいので,それぞれに厳密な区別(客観的な基準)があるわけではないようですが,それでも学会ごとに微妙に異同があっては紛らわしくて困ります。
[例2] anginaの訳
anginaといえばangina pectoris(狭心症)が有名ですが,本来anginaは「激痛」を意味するラテン語なので,心疾患以外のanginaもあります。その場合,訳語は「アンギナ」とカナ書きになります。
angina pectoris → 狭心症 abdominal angina → 腹部アンギナ unstable angina → 不安定狭心症 Ludwig angina → ルートヴィヒアンギナ variant angina → 異型狭心症 Vincent angina → ヴァンサンアンギナ Prinzmetal angina → プリンツメタル狭心症
(2)一つの学会の中でも複数の表記が混在している場合があります。
[例] 頻脈? 頻拍?
- イメージとしては,脈をとって診断するときは「頻脈」,心臓の拍動を念頭において考えるときは「頻拍」という区別でしょうか。でも実体は同じです。
- 「頻脈」「頻拍」「徐脈」は使いますが,「徐拍」とは言いません。まして「不整拍」は論外です。そこで他の言葉とのバランスで使い分けられます。
- 病名としてのtachycardiaは原則として「頻拍」が用いられるようですが,「徐脈」や「不整脈」とペアになるときは「頻脈」になるようです。
atrial tachycardia / ventricular tachycardia → 心房頻拍 / 心室頻拍 reentrant tachycardia → リエントリ性頻拍 tachycardia initiating zone → 頻拍誘発帯 bradycardia-tachycardia syndrome → 徐脈頻脈症候群 bradyarrhythmia / tachyarrhythmia → 徐脈性不整脈 / 頻脈性不整脈

知っていないと訳せない病名(英語名と対応していない病名)があります。
rheumatoid arthritis (RA) → 慢性関節リウマチ(×リウマチ様関節炎) juvenile rheumatoid arthritis (JRA) → 若年性関節リウマチ(“慢性”が消える) osteoarthritis (OA) → 骨関節症(×骨関節炎) ※ この類は他にも多数あると思います。
医学論文では,通常の日本語では用いない表現が多々用いられています。
- 著明 著効 増悪 近医
- 「○○性に(若年性に,有茎性の)」
- 「〜のごとく,〜しうる」等の古めかしい表現
※ これらは決して間違いというわけではありませんが,今後「開かれた医療」を本当に目指すのであれば,医師の言葉づかいそのものを変えてゆく必要があると思います。ただでさえ難解な内容を,わざわざわかりにくい日本語で言わなくてもよいでしょう。
以上,仕事の合間に考えていることを,とりとめもなく話させていただきました。これを機会に皆さんのご意見も聞かせていただければ幸いです。
